LGBT当事者もしくはアライによる「セクシュアリティ」に関するレポートを紹介するシリーズ。
今回のテーマは「性差」についての後編です。

前編はこちら

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性差は性別役割分業の根拠になるの?

ここで断っておかなければならないのは、このような性差の存在を唱える生物学者が性別役割分業を支持する性差別主義者であるわけではないということです。

そのことは著名なサイエンス・ライターであるマット・リドレーの著書『徳の起源―他人を思いやる遺伝子』の中の次の文章に感じ取ることができるでしょう。

「男女の分業は単に生物学的構造の反映にすぎず、女性は出産し幼子の世話をしなければならないため、安全でゆっくりとした、そしてあまり遠くへ行く必要のない活動を受け持つようになったのだという主張もあるが、説得力を欠く。

…偶然にもステレオタイプ化が好きな人にはまことに好都合な材料がここにはふんだんにある。
しかし、女性の居場所は家庭であるということを証明するようなものはなにもない」
(pp.134-136)

性差なんて怖くない!

このように性差を性別役割分業の基盤として考えることは生物学者も支持するところではありませんが、ただ重要なのは性差があるかないかではなく、たとえあったとしても問題ないということです。

重要なのは典型的な「男性らしさ」/「女性らしさ」をすべての男性/女性に押し付けようとしないように社会の1人1人が心がけることです。

「性差」とは統計学的に男女両集団における平均値を比較したときに観察される差異のことでした。

ですから、そうして見いだされた「男らしさ」や「女らしさ」に当てはまらない男性や女性は当然存在します。
これは身長の性差を考えれば容易に理解できることです。

たとえば一般的には男性の方が女性よりも身長が高いですが、しかし言うまでもなく身長が低い男性はいますし、逆に身長が高い女性もいます。

しかし私たちは身長が低い男性に対して身長を伸ばすように求めることはありませんし、身長が高い女性に身長を低くするように求めることはありません。

ところが他の「性差」の話となると途端にこの常識が忘れ去られてしまいます。

女性はおしとやかで上品であるように求められますし、男性は仕事をこなし女性を引っ張るような姿勢を期待されます。
そしてこうして期待される「男らしさ」や「女らしさ」に当てはまらない男性や女性は「男らしくしろ」「女らしくしなさい」と周りの人から機会のあるごとに注意されるわけです。

しかし、そのような「男らしさ」や「女らしさ」が男/女の本性として存在するのならば、そもそもそのような言葉が世の中にあふれていることはないはずです。

なぜなら、「男らしさ」や「女らしさ」はすべての男/女に本性として備わっているのであり、それから外れる人などいるはずがないからです。

個人を個人として他者を他者として受け止めること

従来はこうした「男らしさ」/「女らしさ」がすべての男/女に強いられてきました。

しかし本当に大切なことは個人を個人として受け止めることではないでしょうか。
個人のありのままをありのままに受け止める。
ある人を理解するのに世間の「男らしさ」や「女らしさ」の枠に当てはめて捉えようとするなんて、真剣にその人に向き合おうとしているとは言えないと思いませんか。

しかし今までは実際そうやって個人を捉え個人々々の独自性よりも,平均値の差にすぎない性の枠組みを優先させていたのです。他者を他者としてあるがままに受け止めること。それが今,求められているのではないでしょうか。